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矢倉沢往還を歩く (1)

冬の青空の下、ハイキングをしてきた

例年どおりサッカー天皇杯決勝と箱根駅伝から新しい年が始まったが、もとより正月気分というほどのものもなく20日が過ぎて昨日が大寒。この冬の寒さはひとしきり厳しいと感じながら、一昨日は秦野市観光協会主催のハイキングに参加してきた。「矢倉沢往還を歩く」というふれこみで観光ボランティアガイドの案内により、参加者はボランティアを含めて80名近くが3つのグループに分かれ、小田急電鉄・開成駅を午前9時過ぎに出発した。

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今日のコースは往還道を西から東に向かうルートで、行程距離は約12キロとのこと。スタートしてまもなく足柄大橋で酒匂川を渡り、川沿いに整備された遊歩道を遡って川音川との合流地点まで歩いたところで小休止。ここで江戸時代の酒匂川の治水事業についてガイドの説明を聞いた。

「宝永4(1707)年、富士山の噴火による火山灰(この地域では1m前後の降灰があったそうだ。)で酒匂川が氾濫し(降灰によって河床が上がり既存の堤防が決壊しやすい状態になったため)壊滅的な被害が生じたので、幕府(徳川吉宗治世の時代で大岡越前の差配)の命を受けた田中丘隅(たなかきゅうぐ)がここに文明堤を築いた。」とのこと。実際の文明堤の位置はもう少し酒匂川の上流らしい。

川音川の左岸沿いに歩を進め、松田町の惣領から神山(こうやま)という地に入り、ここからは大井町の篠窪にある富士見塚を目指して登り道が続く。歩いているこの道が足柄往還とよばれた古道かどうかは疑わしいルートでもあるが、なにしろ大昔のことでもあるしアバウトにはこのあたりを行き交っていたことは確かなようだ。コースのそこかしこでは富士山の姿が澄んだ冬の青空に美しく映え、また南の方角を遠望できるポイントからは足柄平野の広がりが尽きたその先に相模湾の海がキラキラと光っていた。

ハイキングコースとなった農道に沿った畑に植えられた蝋梅(ろうばい)が良い匂いを放って咲き始めていてグループの一行をしばし足止めした。

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富士見塚にはスタートから2時間余りで到着した。ここ富士見塚のある大井町篠窪地区(以前にこのブログで触れたこともあるが、町の最北部に位置し秦野市千村と松田町神山との3市町の境が接する自然豊かなエリアで起伏は多いが標高は2~3百メートル程度か。)の小高い丘陵の眺望のひらけた位置にあり、駐車場(2~3台程度しか停められない。)とトイレが整備され、その先には食事休憩ができる木製のテーブルとベンチが数基配置された展望所があり、ここでの昼食となった。(写真は富士見塚から見る富士山)

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「富士見塚の由来」については、地元大井町が設置した案内板の記載を紹介する。

“往古の東路(あずまみち)は足柄山をこえて、餘綾(ゆるぎ、餘綾の誤記?の北端を経て秦野善波峠を過ぎ相模川・王川を渡り江戸に通じていた。この街道を矢倉沢往還と言った。富士見塚はこの矢倉沢往還の一里塚であったと思われる。篠窪字榎の木の側にある。この地は海抜約250m程の丘陵である。源頼朝が冶承4年(1180)に20年間の長い流人の生活から伊豆に旗を挙げて、平家を滅ぼし、鎌倉に武家政治の基礎をきずいた。頼朝は常に武士の士気をさかんにするために、富士の巻狩を催した。そのころ頼朝は、この矢倉沢街道の榎の木(古来より一里塚として植えられた木)に馬をとどめて、富士のすばらしい眺めを鑑賞したという。将軍頼朝の心境はいかばかりであったろうか。その風流の跡をしのんで今にいたるまで富士見塚と言い伝えられている。”(アンダーライン付き括弧書きは筆者の注釈。)

休憩の合間に独りで展望所から先に通じている農道を更に数百メートル登り、丘陵の頂上部に出ると表丹沢の山並みが見事に一望できた。成人の日に降った雪を装った山並みが青空とのコントラストを競って凛とした姿を映している。

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この農道の行き着く先に何やら広く整備されているように見える一帯があり、これを地図で見ると「小松製作所実験場」とある。大手の建機メーカーとして知られる会社の実験場らしいが、人目につかないこれほど辺鄙な場所を選んでどのような機械の製造実験をしているのだろうか、興味が湧く。いずれ調べてみたい。この一帯は昭和40年代の高度経済成長期にM不動産が買い占めを行い、ゴルフ場開発が噂されたこともあった。

富士見塚を発って、ここからは帰りのルートになる。途中にかながわ名木100選にもなっている椎の木のある三島神社そして臨済宗建長寺派の地福禅寺を見て回り、この先から秦野市千村に入る。

焼失してしまって今は形の無い真静院(近く再建されるとも言われる)という寺の敷地の入り口にある六地蔵、市内最古の石造六地蔵尊像で1965年に秦野市の重要文化財に指定されたという。六地蔵に関する秦野市の案内板から、この地を紹介している一部を引用しておく。「通称「峠」と呼ばれる小田原街道のこの地に、この石仏が存在することは、この「峠」が古くから交通の要所であったことを知る貴重な資料となります。(秦野市教育委員会)」

峠隧道を抜けるとようやく秦野盆地に入る。立ち寄った喜叟寺(きそうじ)は曹洞宗の寺院。寺の縁起によると、「源頼朝の従者が僧となり、ここに庵を建てて十一面観音を安置していたが、徳望があり村人に貴僧と尊称されたものがいつしか貴僧寺になったものという。その後、堂宇は荒廃してしまったが、元亀元年(1570) に真翁宗達大和尚が霊跡に仏心宗の道場を開き、山号を広沢山、寺号を喜叟寺に改めた。」と伝えている。寺の参道脇には梅の木が小さな蕾をたくさん持っていて、春を待ちわびていた。この寺の歴史を物語るかのように、いかにも古い石仏群が墓地の擁壁とばかりに積み重ねられていて無常感が漂うばかりだった。

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ここからは小田急線渋沢駅まで街中の道路をスタコラ歩き、駅近くの国栄稲荷神社にて解散。ここには、「大山道矢倉沢往還」という石碑が建っていたが、ここでのガイドは次回改めて行われるそうだ。次回は2月最初の土曜日、2週間後だ。

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渋沢駅は同じ秦野市内にある小田急電鉄の駅だが、久しぶり(多分20年以上は来ていなかった)に見たがとても立派に駅舎が整備されていて驚いた。自分が利用する東海大学前駅も昔は「大根駅」と称し、駅舎と呼ぶほどの建屋もない貧弱な駅だったことを思い出しながら、小田急線の電車(人身事故があったとかで海老名駅止まりの電車だった。)に乗り込み帰途についた。この日のウォーキングメーターは1万7千歩余り、もちろん今年に入ってのレコードだ。


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