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村のはずれのお地蔵さんは

「足柄往還を歩く」という公募ハイキングに参加したことがきっかけで、市内の古道や道祖神などのマップを作成している「まほら秦野みちしるべの会」という市民グループの活動を知り、27日の午後にミニ講座を催すというので出かけた。

ミニ講座は同グループの田村尚武氏から「みち」の語源にかかわる話に始まり、“み”は神聖なることを表す接頭語で、みほとけの“み”などが代表例とのこと。次に“ち”は、元来道路を表す言葉で、「ちまた(道股)」の“ち”であり、また、“やちまた(八街)”などは“ち”(道)が何本も交差する所を表す言葉だそうだ。その他に天孫降臨(古事記)の話から、神々の行き交う通路として「み(御)」・「ち(道)」があり、ちまた(道股)には神々が祀られたそうだ。これが道祖神の起源ということらしい。

「見てござる(昭和20年に発表の作品:作詞山上武夫)」という童謡の歌詞に“村のはずれのお地蔵さんは いつもにこにこ見てござる”と唄われるように、地蔵(道祖神)は村の境に置かれ、旅人の道標として、また疫病神の侵入を防ぐ守り神として素朴な信仰のシンボルだったようだ。

   

つづいて道祖神の話となった。講師の武勝美氏(同グループ顧問?)は万祝(まいわい)を着用して講義すると言い、津波被害に見舞われた気仙沼(ご縁があるという)の復興を願う気持ちをこめて漁師の祝い着である万祝をあつらえたそうである。氏は万祝を“まんない”と呼んでいたが、土地によってはそのように呼んでいるものだろう。

講話はもっぱら双体道祖神の形と歴史にまつわる内容であった。市内にある双体道祖神のひとつが歴史的には2番目に古いもので寛永年間(江戸時代初期)の造立であることが確認できるとのこと。

双体道祖神の形の変遷については、群馬県倉渕村(現在は高崎市に編入)の双体道祖神を例に、写真をまじえて紹介をされたが、おおむね次のような解説であった。

江戸時代の初期すなわち庶民の生活が比較的安定してきたこの時期から双体道祖神が民俗文化として芽吹き始めたとされ、初期の双体道祖神は、子供の守護神である地蔵菩薩が、現世と冥界の境界である六道の辻にいて衆生を化導し、子供の死後は賽の河原で救護者となるという地蔵信仰に始まったというのが通説のようだ。

その後、元禄~宝永年間(1700年前後)には、地蔵像から変化して男女神の区別がはっきりした像となり、雛人形のような像や、男女神が肩をかかえ手をつなぐ像も現われた。寛保~宝暦(江戸時代中期)にかけては江戸文化の爛熟期を迎えて抱擁道祖神が生まれ、明和~慶応年間(江戸時代後期)になると、天孫降臨形(猿田彦と天鈿女)や神道形(伊邪那岐、伊邪那美)、祝言形が造像されてきたとのこと。

道祖神が外部からの災いを防ぎ、かつ旅人を見守る神となったように、双体道祖神は、夫婦円満・子孫繁栄・五穀豊穣などの意味をもつようになったと推定されている。

このように時代と共に像形が変容しているのは長野県や群馬県の双体道祖神に見られるが、神奈川県内の双体道祖神は、初期の様式が近代(明治以降)まで継承されているという特徴があるそうだ。それぞれ地域性なのか、信州や上州の民人はおおらかで、ここ相模の国の民は堅実だったのか、それとも創造性に乏しかったのかなどと感じながら聴いていた。

なお、双体道祖神は信州や上州の他には相模の国では多いが、武蔵の国ではほとんどなく、特に西日本ではほとんど存在しないのだそうだ。講師の話からは、道祖神を彫像した石工集団の技術が伝播する圏域との相関がそこにあるようにうかがえた

 

そして今日、暖かい陽気に誘われて、県内最古の双体道祖神といわれる「戸川原の双体道祖神」を実地に見学してきた。双体道祖神は地域の住民が建てた鍵付きの祠の中に祀られているため、カメラのレンズを隙間から覗かせての撮影となった。[カメラ]

詳しくは、戸川原の双体道祖神<秦野市の公式HPへのリンク>をご覧いただきたい。

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この後、ほど近くにある、秦野市立桜土手古墳公園と併設されている展示館を回ってきた。

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園内には6世紀末~8世紀初頭のものと推定される古墳6基が保存され、また復原された古墳も1基が解説板と共に公開されている。展示館内には、常設展示室、映像室、ミュージアムプロムナードがあり、次回は時間をかけて見て回りたいと思った。今日は市内の道祖神に関する資料だけざっと眺めて帰ることにした。

常設展示室の一隅に秦野市教育委員会が監修した「秦野の石仏」という冊子(報告書)が全4巻にまとめられていて、市内に存するすべての石仏を一体毎に写真入りで詳細に調査した内容が整理されているものだ。特に、なかなか判読できない石仏に彫りこまれた銘文が紹介されおり、今後の調べ物には裏付け資料として用いたい貴重な資料になるだろう。
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 自分としては、あくまでも「門外漢」の立場で、石仏だけでなく郷土史については多角的に接したいと思う。目的は「健康維持」のためのウォーキングにバリエーションを添えるためであり、低コストな脳と身体のエクササイズだ。
 
翌2月には、「寒中ゴルフ」の予定が2回も入った。[位置情報] ボールを打つ練習も楽しいが、何よりも大地を踏みしめてしっかり歩くことが鍛錬と思い、1日6千歩のアベレージ達成を目指している。(実はこの目標が結構高いハードルだということに最近になって気がついた。)


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