SSブログ

散歩圏内の史跡めぐり(2)

そぞろ歩きの日課も不定期にこなしていて、先日は近隣の古墳を2カ所見学してきた。


最初の古墳の名称は「二子塚古墳」(前方後円墳、築造:6世紀後半)で、2010年7月に長さ58cmの銀装大刀が発見され、脚光を浴びた。この大刀の発見により、当地に有力豪族の勢力基盤があったことが実証された、と報じられている。詳細はローカル記事をご覧ください。
http://www.townnews.co.jp/0610/2010/07/24/60799.html

DSCF0012.JPG

DSCF0015.JPG 

中層の共同住宅群(県営団地)の外れに位置し、近くを流れる金目川を見下ろす小高い丘陵の一角にひっそりと保存されている。
kohun_hadano_1.jpg

次の古墳は「塚越古墳」(前方後方墳または前方後円墳、築造:4世紀後半ごろ)で、近年開発が著しく進む平塚市の西北端にある。この辺りの塚越古墳を含む広大な一帯は「真田・北金目遺跡」とされ、古墳時代中期の大規模な集落址も確認されている。また、弥生時代末期から古墳時代前期の方形周溝墓も多数発見されたとの紹介記事がある。いまは、保存されたわずかな古墳を除き、多くの遺跡が住宅開発された土の下に眠っている。

NEC_0100.JPG

いずれの古墳も当時の有力な豪族の墓であり、古代においては“国津神(クニツカミ)”のような存在だったと想像される。国津神は全国各地にいて、天津神(アマツカミ)の子孫に国譲りしていったというのが古事記や日本書紀に書かれていることなんだろう。

古代この地にあった国津神たちは文字を持っていなかったので、何も後世に伝えることはできない。

NEC_0094.JPG


さて、NHK大河ドラマ「平清盛」、平安末期に歴史が大きく動いた治承4年(1180年)を迎え、いよいよ佳境に入る。清盛の専横は後白河法皇の幽閉に始まり、孫の東宮・言仁(安徳天皇)を即位させ、さらには福原遷都へと極まり、やがて破綻への道を突き進む。
歴史にもしもはないが、清盛が政治家としてもう少し賢者であったなら、天皇家の系譜は大きく変わったものになったかも知れないし、少なくとも皇統は一系のものでなくなったかもしれない。しかし、清盛の大望は霧消し、神武以降の皇統は生きながらえていく。
この年の4月、以仁王の乱(鎮圧される)にはじまり、8月には以仁王の令旨を受けた源頼朝の旗揚げなど、反平家の流れは各地に巻き起こり、いよいよ治承・寿永の乱の幕を開けることになる。
清盛は翌年の治承5年(1181年)には死去し、平氏は4年後(1185年)の壇ノ浦の戦いで殲滅する。
放送も残り4回となり、次回の放送では頼朝が弟・義経と対面する富士川の戦いに話が進むようだ。

ドラマでは描ききれない、とりわけ東国の武将たちが気にかかる。最近になって読んだ「つわものの賦」と「炎環」(いずれも永井路子さんの著作)が、想像力の不足を補ってくれている。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。